1月23日にさいたま市岩槻区にある「岩槻城址公園」へ4月のお花見に向けて3人の
世話役の方々と下見に行ってきました。
ここ岩槻は、かっては埼玉県の東部に位置した市であったのですが、2005年4月に
さいたま市に編入されさいたま市岩槻区となりました。市の中心部は江戸時代、岩
槻藩5万5000石の城下町であり日光御成街道の宿場町として発展しました。
今回は室町時代は1457年(長禄元年)に築城された岩槻城(岩付城、岩附城、
白鶴城、浮城とも呼ばれた)城址でのお花見です。
八つ橋 ギザギザに曲がった朱塗りの橋 渡った先がお花見会場

菖蒲池 カワセミが飛来する

堀障子(ほりしょうじ) 城の堀に設けられた障害物で敵の移動を妨げたり、飛び
道具の命中率を上げることを目的として築かれた空堀。

鍛冶曲輪 白鶴城址碑
花見会場はこの周辺で 移築された岩城城門 黒く塗られて
いるので「黒門」と言われている。
幅約13m 奥行3.7mの長屋門形式

人形塚 昭和46年(1971年)10月15日を「人形の日」と決め、埼玉100年を記念として
建立された。人形つくりの起源は江戸時代のはじめ1630年頃とされている。
岩城城裏門 江戸時代後期の明和7年に当時の城主大岡氏のときに修造された。
間口約3m、奥行約2m。左側は袖塀、右はくぐり戸になっている。

浄源寺 浄土真宗本願寺派寺院の浄源寺は、僧善正が開山したといいます。
境内にあるしだれ桜が有名です。
遷喬館(せんきょうかん)
寛政11年(1799年)、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯が創設した私塾です。
文化年間(1804年から1817年)に藩校となり、儒学を中心とした講義が行われ、
藩士の子弟らがここで学びました。 茅葺、平屋建ての30坪ほどの建物です。
下見では岩槻駅からじかに岩槻城址公園まで行きましたが、本番当日は、町
中の建物等を訪ねながら岩槻城址公園に向かいます。従いまして掲載の写真
とは逆方向になりますのでご注意ください。
幹事 菊地
世話役の方々と下見に行ってきました。
ここ岩槻は、かっては埼玉県の東部に位置した市であったのですが、2005年4月に
さいたま市に編入されさいたま市岩槻区となりました。市の中心部は江戸時代、岩
槻藩5万5000石の城下町であり日光御成街道の宿場町として発展しました。
今回は室町時代は1457年(長禄元年)に築城された岩槻城(岩付城、岩附城、
白鶴城、浮城とも呼ばれた)城址でのお花見です。


八つ橋 ギザギザに曲がった朱塗りの橋 渡った先がお花見会場


菖蒲池 カワセミが飛来する


堀障子(ほりしょうじ) 城の堀に設けられた障害物で敵の移動を妨げたり、飛び
道具の命中率を上げることを目的として築かれた空堀。


鍛冶曲輪 白鶴城址碑


花見会場はこの周辺で 移築された岩城城門 黒く塗られて
いるので「黒門」と言われている。
幅約13m 奥行3.7mの長屋門形式


人形塚 昭和46年(1971年)10月15日を「人形の日」と決め、埼玉100年を記念として
建立された。人形つくりの起源は江戸時代のはじめ1630年頃とされている。


岩城城裏門 江戸時代後期の明和7年に当時の城主大岡氏のときに修造された。
間口約3m、奥行約2m。左側は袖塀、右はくぐり戸になっている。


浄源寺 浄土真宗本願寺派寺院の浄源寺は、僧善正が開山したといいます。
境内にあるしだれ桜が有名です。




遷喬館(せんきょうかん)
寛政11年(1799年)、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯が創設した私塾です。
文化年間(1804年から1817年)に藩校となり、儒学を中心とした講義が行われ、
藩士の子弟らがここで学びました。 茅葺、平屋建ての30坪ほどの建物です。
下見では岩槻駅からじかに岩槻城址公園まで行きましたが、本番当日は、町
中の建物等を訪ねながら岩槻城址公園に向かいます。従いまして掲載の写真
とは逆方向になりますのでご注意ください。
幹事 菊地
2017.02.03 / Top↑
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